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今回は京都市右京区太秦にある皇室史跡として、JR嵯峨野線の花園駅の南約六百メートルにある後鳥羽天皇皇女・禮子(礼子)内親王墓(右京区太秦安井池田町)を採り上げます。
禮子(礼子)内親王(れいし ないしんのう 1200〜1273)は、鎌倉時代の正治二年(1200)に、第八十二代・後鳥羽天皇の第三皇女として誕生しました。母は後に内大臣となった坊門信清(後鳥羽帝の叔父)の娘、坊門局(西御方)です。元久元年(1204)六月二十三日、五歳の時に内親王宣下、賀茂斎院に卜定され、合わせて准三宮に准じました。
同二年(1205)四月二十八日、諸司(左近衛府)へ初斎院、建永元年(1206)四月十九日、紫野院(尚、現京都市上京区にある櫟谷七野神社の境内には、この斎院跡の石碑があります・・ブログパート1に掲載))へ入御。
しかし、建暦二年(1212)九月四日、十三歳で病気により退下します・・病気による斎院退下は前例の無い事態だったため、賀茂社に奉幣使を発遣して其由を告げ、同月十九日には斎院禮子内親王御祓が行われる等、当時の諸記録からは朝廷の狼狽した様子が伺われます。
その後、建保二年(1214)六月十日、院号宣下によって嘉陽門院(かようもんいん)と称しました。尚、当時の女院御所は四条殿と呼ばれ四条壬生にありました(寛喜2年(1230)五月二十三日には、この四条壬生嘉陽門院御所は焼失したという記録があります)また、承久二年(1220)五月二十一日には出家して、法名を真如性と称しました。
その後、世俗を離れたためか当時の諸記録にはあまり登場しませんが、承久三年(1221)の承久の乱で、父の後鳥羽、異母兄の土御門、順徳の三上皇が流刑となった際も、既に出家していた嘉陽門院はそのまま京に留まったようです。また、寛喜三年(1231)一月二十二日に八条堂で行われた鎌倉三代将軍・源実朝の十三年忌追善法要の際には、当時居住していた御室仁和寺の御所から御幸して供養を行っています。そして、文永十年(1273)八月二日、七十四歳で亡くなりました。
また、嘉陽門院(禮子(礼子)内親王)は、最後の賀茂斎院としても知られます・・承久の乱等の騒動によって、以後、賀茂斎院が廃絶したからです。
さて、太秦安井にある嘉陽門院(禮子(礼子)内親王)の墓についてですが、嘉陽門院の終焉及び埋葬地について当時の諸記録は明らかにしませんが、この地は、鎌倉時代末期に、後宇多天皇が崇敬していた南浦紹明(大応国師)禅師の入寂後、国師を開山として創建された龍翔寺(室町時代の五山十刹の十刹の一つ)の旧地になり、龍翔寺はかつての嘉陽門院の御所が荒廃した跡地に建てられたと伝えられています。
江戸時代の「雍州府志」や「都林泉名勝図会」等によると、この地には、古くから嘉陽門院の墓と伝承され、嘉陽門院塔と呼ばれた五輪石塔が竹藪中にあったようです。
現在の宮内庁によって整備された墓は、正面前は駐車場化し、民家に囲まれてはいますが、京都市内の皇子皇女の墓としては面積も広く開放感があります。杉の木立が遠くからでも目立ち、側面からはっきりと五輪石塔を見ることができます。
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